略歴
明治11年 (1878) 9月1日栃木県那須郡佐久山町(現大田原市)に川上茂平の三男として出生。
明治24年 (1891) 14歳で西川春洞門に入り、書道を修める。
大正 3年 (1914) 瑞雲書道会を興す。
大正15年 (1926) 東京都美術館建設直後、寄付者である佐藤慶太郎氏の賛助を得て、日本書道作振会展を同美術館にて開催。 書道展初めての同館使用の目的を達する。
昭和22年(1947) 帝国芸術院会員となる。(7月)
昭和23年 (1948) 「日展」の書道部5科新設に尽力する。
昭和25年 (1950) 小中学校における毛筆習字復活のため5年の歳月にわたって努力、翌26年4月より実施されることが決定。
昭和39年 (1964) 中国より招聘され「豊道春海個展」を開催、北京、広州、上海で巡回展。勲三等瑞宝章を受ける。(11月)
昭和42年 (1967) 書道界で初めて文化功労者に選ばれる。(11月)
昭和45年 (1970) 9月26日遷化。 法号「書禅如院大僧正春海慶中大和尚」 従三位勲二等を追叙される。享年93歳。
業績
大正3年(1914年)、36歳で瑞雲書道会を創設した豊道春海先生は、当時群雄割拠していた書道界を一本化し、わが国文化の一翼を担う芸術としての地位確立のために尽力され、その努力は日本書道作振会として結実しました。
その後、日本書道作振会は泰東書道院となり、戦後、日本書道美術院として発展しています。
また、春海先生は、書道の「日展」参加にも戦前戦後を通じて尽力され、昭和 23年(1948年)に実現、これにより未曾有の書道ブームが到来しました。
終戦後、GHQ(連合軍総司令部)の占領政策の一環として、学校での毛筆書道の授業が廃止されるなど、書道界の“冬の時代”にあって、春海先生は、自らGHQに赴いて書道復活を直談判、この熱意が実り、昭和26年(1951年)より国語科の中で書道の授業が復活しました。
こうした活動と併行して日本書道連盟の結成(昭和25年)、また昭和33年(1958年)からは書を通じた日中友好にも尽力し、書の国際化の道を開きました。
豊道春海先生は、14歳で西川春洞先生に師事して書の道に入って以来、事故のない限り一日として筆から遠ざかったことはないといわれています。
「一生稽古」を心得とし、書の良否を決するものはその人の心であり、そのためには常に心を豊かにし、気力を充実させていなければならないと述べています。
また、独自の表現方法として超大筆による大字席上揮毫の先鞭をつけたことでも知られています。